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http://news.livedoor.com/article/detail/3200670/
うーむ、何から書けばいいのか。
急いで書くと勘違いされそうだ。
まず。政治には理想の追求 と 現実の処理 があるということを前に書いたと思う。
理想の追求とは要するに政治哲学である。現実の処理とは政治の行動論的な政治学のことである。
前述したマキアヴェリは主に現実の処理をどうすればよいか説いているし、韓非子の主なことも現実の処理である。
それを前置きして、
西欧社会では、この世界は神が創ったものでやはり人間も神が創りたもうたものである。
ということは、民主主義という場では人間は神の前では等しく同じものだということになるから、どんな貧乏人でも大金持ちでも、選挙では1票ということになる。
では、中国ではどうなる。
帝力何の関わりあらん。
帝力何するものぞ、そんなものは関係ない関係ないと言っているのである。
これは中国で太古の昔から歌い継がれている、民謡の最後の一文だ。
帝力は皇帝の権力であるから、民衆はそれがどうした我には関係ないと啖呵をきったのである。
恐ろしいほどの自信と心意気に溢れている。とても日本人には真似できないし、西洋人とて真似できまい。
よく、中国人のインタビューで上がやりますから、大丈夫ですよ。と誰に聞いても同じ事を言うのに違和感を感じる人もいるだろう。情報統制されているせいもあるだろうが、基本的に信念が帝力何の関わりあらん。なのである。だから、中国人は権力と付き合うのがうまいのだ。
また、太公望は文王に尋ねられてていう。
天下は一人の天下にあらず、天下の天下である。と
そうだ。権力は一人の独占物ではない。広く、公正に社会に流通させるべきものだ。
しかし、中国人に民主主義を教えたら大変なことになると考えた男がその趣旨を変えた上で民本主義といった。だから、民本主義は骨抜きになった民主主義であると考えられるかもしれない。
なぜ、民主主義を教えたら大変なことになるのか。
そうだ、帝力何の関わりあらん。という信念があるから。ただでさえ自由な中国人がだだでさえ、権力と付き合うのがうまい中国人が民主主義をしれば、どうなるものか分からなくなってしまうからだ。
地獄の沙汰も金次第。伝統的に中国では、蓄財は美徳とされていたし、その方法は綺麗に稼ぐ人と汚くしか稼げない人間がいる。汚く稼ぐ人は、今の中国を見れば、人権侵害なぞお構いなしに官民でやることはえげつない。最近、私のブログをよく見てくれている人の記事からあげてみよう。
nomariさんの記事。
http://blog.qlep.com/blog.php/16999/96586?categ=1&year=2007&month=6
まさに官民一体の人身売買。
また、中学生が川で溺れていて同級生が助けを呼んだとき、金を要求したいう。結局、溺れた子は溺れ死んでしまった。その通りで彼女は宝貝を持っていなかったために死んだのである。
なんにましてもおぜぜはすべてを解決してくれる。宝貝だったのだ。
北宋の時代その宝貝で国の安全を守ったくらいである。皆が蓄財するのは当たり前だ。
また同じく北宋の時代、王安石が、政治改革を行ったとき、時の皇帝神宗に 陛下、陛下は士大夫たちと政事をなされておられるのですぞ。まさか、百姓たちの天下を治められいるお積りではございますまい。と諌めた者がいる。政治は君臣共に行うもので、百姓の関与すべきものではないと言い切ったのである。
権力は一人の独占物ではない。広く、公正に社会に流通させるべきものだ。これは官場での皇帝が官爵を売り、士大夫が能力を売るという行為というわけだ。まあ、当然その取引の場を規制するのが法と制度ということになる。
そういう伝統的社会がいまなお存在している。前に書いたが中国は皇帝だろうと主席だろうと何も変わらないと書いたのはそのためだ。どれだけ、侵略を受けてもいつのまにか中国化してしまうのが中国である。それほど、中国の民を相手にするのが難しいから、皇帝と士大夫は官場に閉じこもって奉納芝居を続けたのだ。
でも、日本は違う。西欧のように絶対的な神はいない。いや、いるにはいるが書くのが危険なので書かない(笑)
中国のように権力に慣れ親しんでいない。
西欧社会もキリスト教があるから、結構。権力の存在が身近だ。
しかも、授業であまり経済のことを教えないのは致命的だ。
たしかに人間2人集まれば権力ができる。しかし、誰かが主導権を握っているのに仲間意識を勝手に持つのが日本だ。日本は本当にお上がきちんとやってくれると思っているおめでたい国なのだ。権力が基本的に正義だとどこかで思っているところがある。
政治なんてものは必要悪なのだ。
これと付き合うのはそれなりに、気力が必要だし、知識が必要だし、経験も必要だ。必要悪であるものが政治であるのに、その権力が正義であるはずもない。
西欧では正義なのだ。神から譲り受けたから。日本は違うでしょ。今の日本はなおさら。日本独特の民主主義が必要なのは自明だ。
ようやく本題。
成人年齢」を18歳にする。
まず、理想の追求。
民主社会の確立。そして、日本の理想的武器は戦争の放棄だ。平和主義なんぞではない。政治の延長、政治の力が生々しく出てくる戦争を放棄することをどうするか。そういう国家を作るにはどうしたらいいか考えるのが理想の国でしょ。今、アホの安部がやっているのはこれをやめる事だ。何の戦略も無しに?アメリカを頼るつもりか?戦争をしないことで国際社会に確固たる地位を築く。これが日本の理想だ。もちろん、自国が侵略されたら意味も無いので、それを守る戦力は持って(笑)戦力を持つこと禁止されてるね(笑)しかし、専守防衛できればそれでよい。それくらいは持たなければおそらく戦争放棄はできない。侵略はしないが、侵略されるような国にもならない。それでいい。今は、アメリカ頼りでこれができてるのは、問題だが、国際社会に完全に認められるのは、至難の業。私が言っているだけなので、平和主義にしたい人はご自由に。おそらく人間に欲望がある限り、そう簡単に戦争はなくならない。だから、戦争の放棄は理想に足りえる。
では、現実の処理
法と制度を決めていくことだが、当然のことながら大方終わっている。韓非子、マキアヴェリさまさまである。行動論的な政治学は習得している。では、国民には周知してるのか。ここは民主国家だ。選挙という儀式がある。この儀式を行わない限り民主国家の最低限のことができもしない。また、政治哲学が国民の間でほとんど論議して無い。してるにはしてるが、所詮、民衆を無視した、かごの鳥がピーチク、パーチクやっているだけ。国民に聞こえてこないよ。また、国家権力に付き合うのがうまくないのも問題だし、西欧や中国はこれに付き合うのは当たり前なのは前に書いたとおりだ。世界標準が18歳?笑わせるんじゃないよ。成人年齢を18歳にするのはよしとしよう。しかし、選挙権を持たせるのはまったく別次元の問題だ。明らかに国民投票法を18歳からにしたのは、明らかに悪意がある。権力と付き合うには気力が必要だし、知識が必要だし、経験も必要と書いた。その舌の根も乾かすまもなく18歳などと私が主張するわけなかろう。西欧社会はキリスト教のおかげで権力の付き合い方が学べるのだ。民主主義とは何かを肌で感じることができるから18歳でも通用する。日本は違うでしょ。民主主義とは何かを肌で感じることは、選挙に行くという漠然としたものでしょ。それではだめだ。政治は必要悪で権力も必要悪ということを経験で学んだ後に選挙に行くのが最もよい方法かと思われる。西欧社会とは違い圧倒的に経験不足なのだ。その経験を積む場が小さいときから20歳になるまでに積まれてない。だから、18歳というのは疑問符が付くのである。大人が選挙に行くのではない。それなりの見識を持った大人が行くから意味がある。百歩譲って選挙に行かせたとする。でも、今回のは明らかに票を集めるための工作にしか見えない。民主党が反発したのは当然のこと。270万票これほどおいしい票はなかろう。相変わらずの小細工だ。国民を欺くばかりか、馬鹿にしている。としか思えない。
馬鹿の逸話
秦の時代
時は秦始皇帝が崩御し、2世皇帝の時代
趙高が2世皇帝に鹿毛のような馬を贈る
2世皇帝は
鹿のような馬じゃ
という
趙高は
馬のような鹿でございます
という
結局 朝臣たちに鑑定してもらうことになった
趙高は朝臣たちに問う
これは馬のような鹿である しかし陛下は鹿のような馬だとおっしゃる さてよくご覧じよ これは馬か鹿か
趙高は言外に意味あることを含みながら 朝臣たち問うた
ある者は馬といい ある者は鹿といった
馬といった者は哀れ 免職され 左遷された
見て判別が付くのにそれをそれと言えないゴマすり野郎こそ 本当の馬鹿であろう
政治の続きでもするか。
今日は西欧社会の権力について
古代中国では権力の探求が、春秋戦国時代に終わっていた。韓非子はその成果と言ってよいだろう。
今回はそれをおいといて、西欧社会で権力の探求がなされたのは、ま、ルネッサンス以降だ。
せっかく政治の天才アウグストゥスがローマ帝国を築き上げたのに、まあ、国教にしたため、
権力が神に由来するようになってしまった。ローマ帝国に関してはまたの課題にしておこう。ややこしくなるから。ルネッサンスでは、神に由来する権力を人間の手に取り戻すことにあったから。取り戻すというところが、重要だが今回は触れない。中国は権力とは何かを探求し、結果として韓非子を得ることができたが西欧社会は神から譲り受けた権力をいかに効率良く使うかの研究に没頭した。その結果、権力が神から譲り受けたものなので、権力とは何かの研究がなされず、その権力に疑義を挟む余地がなかったわけだ。
他の民主主義のシステム構築をする政治哲学者はそれはそれでよい、しかしもっとも重要な人物は現代政治学の祖であるマキアヴェリであろう。彼の著作を読めば権力が神に由来していることがわかる。彼の言葉には悪徳という言葉が多い。政治は宗教と倫理とは別だと割り切った上で、それが神から譲り受けたものであるがゆえに、残虐、酷薄などという言葉使い、権力の行使に躊躇をするなということを説きながら、それを悪徳といったわけである。マキアヴェリを現すのにもっとも用いられる言葉があるとしたら、結果さえ良ければ、手段はすべて正当化される。であろう。
ま、いろいろ書いたが、とどのつまり、権力の使い方がマキアヴェリの説いたことで、マキアヴェリズムとは権力を使うときの詐術それを含めた技術、それは、容赦の無い力の激突が想定されているのに対し、韓非子の権謀術数とは、権力の場における駆け引きの技巧、あくまで利益分配であり、そこには妥協の余地が残っている、要するに権力の場における、身の処し方である。やはり、この二人を同一視するのは危険であり、そこにはやはり、政治文化の違いがあるからだ。
とまあ、いろいろ考えてみたが権力とは何かの道は遠いな。
ちなみにあの超大国が正義を振りかざすのは、やはり権力が神に由来してしてるからであり、しっかり、マキアヴェリの思想の恩恵を受けている。
マキアヴェリは言う。
歴史に残るほどの国家なら必ず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも、二つのことに基盤においたうえで種々の政策を実施したのであった。
それは力と正義である。
正義は国内に敵をつくらないため必要であり、力は、国外の敵から守るために必要であるからだ。
ー「フィレンツェ共和国の今後について、メディチ家の質問に答えて」ー
新潮社 塩野七生 マキアヴェッリ語録 58ページより
何にしようか(笑)
いろいろ話題を考えてはいるが、政治のことをひっぱているのも問題だな(笑)
そうだな、まずはお肉。
書こうか、迷ったが。
ま、いまさら何を言うてんねん。
氷山の一角なんかじゃなくて当たり前(笑)じゃないの。
私の友人で肉屋がいたが、偽装なんぞ普通にやっていると5,6年前に言っていた。
今回は、豚肉を混ぜたのが仇となっただけだろう。
その友人の話では外国産の牛肉を国産に変える技術があると言っていた。
インチキどころか、技術の域に達しているところが凄い(笑)
本当のお肉はその友人に分けていただいたお肉で初めて知りました(笑)
本当にカルチャーショックですよ。本物のお肉は。一万円も出して食べたお肉なんかとは比べても勝っていましたから。あ~我々は貧乏人は腐った人間のまずいお肉しか食べれません(笑)
肉屋の友人はその後結婚して、連絡が取れなくなったので、おいしいお肉はもう一生食べれんでしょう。
変わらない国がある。
紀元前に既に近代国家を為すための法治国家を完成させていた。
法があっても無い状態は今でも変わらず、いかに肥欠を探すか、どこの場でも錬金の場だった。
法は表向き守られているがしかし、法があっても無い状態とはどういうことか。単に守るふりをして背を向けていただけのことだ。
皇帝はいなくなったなったが、それが総統だろうが主席だろうが同じことである。
ともう少し踏み込んで書けばよかったが、しょうもない誤解が生まれそうなのでやめておこう。
というわけで、今日はコードフリークDSの小大全が発売したのでご紹介しよう。
DSコードフリーク今までの未収録を含めての発売である。情報源が少ないので非常に助かるというものだ。
君主の正当性は所定の手続きを済ませていれば保証されるという意味だ。
所定の手続きとは法と制度に則って行うということだ。
それは同時に君主の権力の根拠付けにもなった。
民主主義に当てはめるとどうなるか。
昔は政治家と官僚の区分が明確ではなかったが、今でも明確とは思えないが、なぜなら自分が政治家だといってしまえばやはりそいつは政治家なのだろうと思うからだ。要するにいつでもお山の大将になれるということだ。一方、官僚の方は法と制度で護られている。がしかし、選挙で選ばれた政治家の決めた法令に従わなくてはいけない。
登基せし者すなわち王、君主を政治家に置き換えればいいわけだ。所定の手続きとは法と制度に支えられた選挙に当選することになる。政治家の権力の根拠は民主主義の法と制度に依って支えられるということ。
明らかに何か抜けている。主権は国民にあるのに、権力は政治家にある。そりゃ不正が止まらんわ。
これは権力の根源が西洋と東洋では違っているし、日本はもっと特殊だからだろう。
欧米風の民主主義は日本には合わない。日本独特の民主主義を持てばいいのだが、それは今あったとしてもできそうにない。
う~ん、なんかめんどくさい思考をたどっているような。
今日はやめやめ。
最後に政治には 理想の追求 と 現実の処理 があるということ。
ライアーゲームはついにかきょうへ
ドラマはオリジナルに突入です。
全体の設定は最初からオリジナルでしたが、ゲームの進行自体ががオリジナル(こまごましたところはドラマオリジナルになっていることも多々ある。また、少数決ゲームの最後もかなりオリジナルだった。原作のままでも良かった感はあったが。秋山の存在感がでるから。)になったのは初めて。
まあそれは当たり前で、今原作は密輸ゲーム真っ最中だからだ。
原作では自チームのATMのお金をそのまま相手チームのATMに突っ込むという作戦を実行中だが、現在その作戦はヨコヤに先手を打たれているという状態。
ドラマでは今のところ秋山が有利に見える。なにせ、ヨコヤのチームから裏切り者をすべて得ている状態だから。ATMのカードをすべて持っている状態だ。やろうと思えば原作の作戦(入金に上限が無いということを確認していないのでまだ分らないが)は労せずやれる。ゲームの全体がにヨコヤの好きな支配を秋山に受けているから。
それにしても秋山役の松田翔太は完全に秋山の役をものにしてますね。(素人が言ってなんだが(笑))
私の中では秋山=松田翔太になってます。
今週はナオちゃんの存在が薄かったので最終回はどうするか楽しみ。
敬称略
ダウンタウンの松本人志、難解な笑いをすることで有名である。
ボケているのにつっ込まない浜ちゃんにイラッ。
同じく、島田紳助にイラッ。
要するにレベルの高い笑いはそうそう理解できないわけだ。
プロがこういうふうに解からないということは我々凡人には解からない事が多い。
しかし、よく考えた上で松ちゃんのボケを思い出すと後で笑ってしまうということはよくあることだ。(他人のことは知らんよ(笑))
でだ、6月24日放送のダウンタウンDXでのできごと。
前後関係は忘れたが,話題がおしっこに関することだった。
元光GENJIの諸星に関することで松ちゃんはボケた。
おしっこがいっぱい
光GENJIのことでボケた。
一瞬、何のことか解からなかった浜ちゃんは土田晃之にこれをどういうことか聞いたというより、顔を向けた。
このときの松ちゃんの顔は少し引きつっていてかなりイライラした感じだった。そう思ったかは分らないが、何でつっ込めへんねん、てゆうか何で解からへんねん。という印象を受けた。
要するにこういうボケだった。
おしっこがいっぱい
↓
排尿がいっぱい
↓
太陽がいっぱい
という光GENJIの歌に掛けたボケだった。
このボケが解かった土田はたいしたものだが視聴者で解かった人はどれだけいたんだろう思ってしまった。
私も一瞬解からなかったが土田がすぐに反応してくれたおかげでおもいっきり笑ってしまったという話。
威無くば則ち権を失う。
衆と好悪を同じくし然る後に権変を加うるべし。
夫れ一たび衆を合すれば、卒に離すべからず。権威、一たび与えれば卒に移すべからず。
三略の言葉だが、もちろん3つの言葉は並んで書かれていないが、彼の状態を端的に書かれているであろう物を個人的に書き出してみたのだが、なかなかうまく書き抜けたでしょうか?
うちのトイレットペーパーは昔からシングルだ
どうでもいいですよ
うちの親父は一度使ったティッシュを乾かして使っている
どうでもいいですよ
別にAの作品は読まなくて問題ないと思う
どうでもいいですよ
徴兵されるまでに私は死んでいるかもしれない
どうでもいいですよ

